本日ご紹介するのは「てにをは辞典」
紙の辞書のなかでは最も使用頻度が高く、愛用している。小説の執筆中はいつも手元に「てにをは辞典」を置いている。
ネーミングから、助詞(てにをは)の辞典なのかな、と思われるかもしれない。だが実際には「コロケーション辞典」と呼んだ方がふさわしく、本書は《言葉と言葉の結びつき》を探すための辞典である。詳しくは後ほど。
(ゾウの表紙がかわいい。姉妹辞書の『てにをは連想表現辞典』との比較記事はこちら→「てにをは連想表現辞典」てにをは辞典との比較とレビュー の記事に書いた)
1.何のために辞書を引くのか
小説を書くにあたって、辞書を引く理由はいろいろと思いつく。ボキャブラリーを増やすため、描写の力を上げるため、単語の意味を調べるため……etc
しかし、あらゆる辞書において、その本来的な役割というのはたった一言に言い表せる。すなわち辞書の役割とは《代替表現を探すこと》だ。コロケーション辞典に限らず、国語辞典、類語辞典、比喩辞典、レトリック辞典、オノマトペ辞典、これらは、自分の頭に思い描いた文章の《代替表現を探すために》真価を発揮する。
代替表現を探す、という考え方はとても重要なので、ぜひ覚えておいて欲しい。小説の執筆中に辞書を引くのは、より相応しい言葉や表現を見つけるための儀式である。
2.「てにをは辞典」を小説の執筆にどのように使うのか
一例:行動を描写する
ここでは「歩く」描写について考えてみる。同じ「歩く」でも、早歩きだったり、のろのろ歩きだったり、足を引きずっていたり、歩幅が大きかったり、表現次第でその人物の性格や心理状態がまるっきり変わってくる。
- 「彼は歩いている」
これだけでは何も伝わらない。なので、より詳細な心理を伝えるための表現を五個考えてみよう。行動描写を書く際に、てにをは辞典は大層役立つ。
以下、てにをは辞典の活用によって書くことのできる例文。
彼は全身にうっすらと冷や汗をにじませて、忍び足に廊下を進んだ。
(てにをは辞典/以下略 p.1398 全身に・うっすらと【冷や汗】が→にじむ/p.62 忍び足に【歩き回る】)
大げさにため息をつく。投げやりな歩き方で、彼は壇上にあがった。
(p.991 おおげさに【ため息をつく】/p.62 投げやりな【歩き方】/p.1000 【壇上】に→あがる)
彼はひきつった笑みを口元に浮かべ、食卓を立つ。そして急ぎ足に玄関へと向かった。
(p.199 ひきつった【笑み】口元に【笑みを浮かべる】/p.62 急ぎ足に【歩く】/p.793【食卓】を→立つ)
彼は無愛想な返事を返すと、さっさと大股に歩み去った。
(p.218 さっさと【大股】に→歩み去る/p.1486 無愛想な【返事】を→返す)
顔に苛立ちの色をちらつかせ、彼は脇目も振らずに道を歩いた。
(p.298 【顔】に→いらだちの色をちらつかせる/p.63 脇目も振らずに【歩く】)
おおよそ、このような感じとなる。てにをは辞典には「語と語の結びつき」が60万例も収録されている。てにをは辞典に載っている用例だけで小説を書き上げることさえ、おそらく可能だろう。
3.てにをは辞典は本当に必要なのか?
上に挙げた例文を読んで、もしかしたらこのように感じられたかもしれない。「これって辞書を引かなければ思いつかないような表現? わざわざ辞典に頼らなくても、自力で描写できるんじゃないの?」
身も蓋もないことを言うと、私もその通りだと思う。てにをは辞典には、凝った修辞技法の類はほとんど出てこない。あくまで、一般的に用いられる(悪く言えば月並みな)慣用表現がメインである。
けれども、それが良い。だからこそ良い。仮に『納豆の糸のような雨』(蟹工船/小林多喜二)、『トテモたまらないお美味さをグルグルと頬張って』(ドグラ・マグラ/夢野久作)みたいな表現が、辞書に載っていたとして、小説を書くのに使えるかと問われればまったく使えない。
お洒落で独創的なレトリックは、その作者だけが扱える専売特許のようなものである。勝手に使えば、剽窃の問題が出てくる。「てにをは辞典」は誰にでも扱える一般表現だけを選別しているので、(だからこそ)辞書としての活用ができる。
結論として「てにをは辞典は本当に必要なの?」と聞かれたら、私は「あると便利だよ」くらいのことしか言えない。おおよそ10万文字の小説を書くときに、私の場合は通算すると「てにをは辞典」を30回ほど引いている。
紙の辞書のなかでは最も使用頻度が高いものの、無ければ困る、というほどでもない。でも、あると便利だ。
辞書を揃える優先度としては、まず絶対に用意しておきたい「国語辞典(広辞苑など)」と、そしてあると間違いなく執筆が捗る「類語辞典(日本語大シソーラスなど)」、その次あたりに「てにをは辞典」を推したい。
あと、てにをは辞典はやっぱり「小説を書くこと」を念頭に作られているな、というのは強く感じる。
例えば「眉根」の項目を引くと(p.1554)
- かすかに眉根を寄せる
- 不機嫌に眉根を寄せる
- 苦々しく眉根を寄せる
- 眉根を寄せて不快の色を見せる
- 眉根をきつくする
- 眉根にかげりが宿る
などの用例(実際には【眉根】だけで28例も出てくる)が続く。このような表現は、まず小説でも書かないかぎり使う機会がない。やはり『てにをは』は小説書きがメインターゲットの辞典なのだろう。
4.インターネットがあれば紙の辞書は必要ない?
たしかに「インターネットがあれば紙の辞書は不要」も一理ある。国語辞典は、ネット検索でも代替できる。ともすればブリタニカ百科事典よりもWikipediaの方が詳しい場合だってあるかもしれない。
類義語、反義語、同義語に、ことわざから四字熟語、レトリックに至るまで、いまやネット上で辞書の代わりになるサイトを無料で利用することができる。
流石に「てにをは辞典」の代わりとなるWebサイトは今のところ見つからないが、それでも検索の仕方を工夫すれば、コロケーション辞典だってネットで事足りる。
とっておきの秘技をお教えしよう。「 “単語” site:aozora.gr.jp 」とGoogleで検索をすれば、青空文庫の1万3000もの作品での「語と語の繋がり」を調べることができる。
(一例「眉根」を検索した結果→ “眉根” site:aozora.gr.jp – Google 検索 なんと259件もヒットする。検索結果一覧画面が、そのままコロケーション辞典として代用できる。見て分かるとおり、辞書とするにはあまりにも優秀すぎる!)
しかし、私がオフラインの電子辞書や紙の辞書にこだわっているのには、大きな理由がある。これは小説の執筆速度を従来の3倍にまで上昇させる、極秘中の極秘、究極の執筆方法に関連する事柄である。
私がどうして、辞書をネット検索で代用しないのか。
それは――、原稿の執筆スピードを手っ取り早く高める方法が「まず、ネット回線を引っこ抜くこと」だから。
これこそ身も蓋もないお話で、乱文失礼。
以上、お役に立てれば幸いです。
(終わり)