【考察】アニメ版 はねバド!に見る「何のために○○をするのか」の呪縛

2018年夏に私を最も熱狂させたアニメは「はねバド!」で間違いない。ハマり過ぎてあとで原作(漫画)も読んだが、ストーリー展開もキャラクターもアニメ版とはまったく異なっていて驚いた。

無論、これは必ずしも悪い意味ではなく、アニメ版と原作とで二度楽しめた。

さておき、ここではアニメ版について語りたい。

アニメ版「はねバド!」では、ストーリー中のテーマとして次の2点が強調されていた。

  • 「才能のない人間」は「才能のある人間」に勝てないのか
  • 自分は何のためにバドミントンをするのか

原作はどちらかと言えば純粋なスポ根モノであったのに対し、アニメでは上記のメッセージがやたらと押し出されていたので、作品の雰囲気がガラッと違うものとなった。(あとアニメ版は人間関係がギクシャクしていた)

2種類の才能について

才能には2種類ある。神様から授かる才能と、環境から授かる才能のふたつだ。

本作の主人公、羽咲綾乃は「才能のある選手」として描かれる。しかし彼女の持つ才能は、後者にあたる。

物心ついた頃にはラケットを手に持ち、バドミントン日本一のプロ選手である母親から英才教育を受けていた。自宅にはバドミントン専用のコートがある。圧倒的な環境の優位性。

作中では海老名 悠が「わたしは小学生の頃からバドミントンを続けていたのに(才能のある人には勝てない)」といったようなことを言っていた。

しかし、努力を「練習の質 × 量」と定義するのであれば、羽咲綾乃は 2歳の頃からプロ指導の下でバドミントンの練習をしている。努力の質でも量でも、羽咲綾乃に勝てる者は誰もいないのだ。

それはたしかに環境から授かった才能のひとつと言えるのかもしれないが、努力とほとんど同義である。

「才能のあるやつはいいよね」みたいに妬み僻みを向けられることがあるとすれば、それはさすがにお門違いで、ルサンチマンだと言える。

あとでの話に繋がるのでここで一旦まとめておくと、羽咲綾乃は「環境」によってバドミントンの才能を授けられた。換言すれば、彼女がバドミントンをする理由は、母親(環境)が付与してくれていた。

ゆえに母親が家から出ていったとき、綾乃は自分がバドミントンをする意味・目的を見失い(母が本当に帰ってこないと悟ったあとは)バドミントンをやめてしまった。

 

さて、一方で「神から授かる才能」というものもある。綾乃のライバルであるコニー・クリステンセンは、バドミントンをするのに有利な高い身長と長い手足を持っている。こればかりは環境や才能ではどうにもならない。

(もっともコニー自身も並外れた努力をしている。ただ原作では「生まれ持った才能(コニー) vs 環境によって造られた才能(綾乃)」という天才同士のぶつかり合いが、ひとつのテーマとして描かれる。

いわゆる「天職」と呼ばれるものは、生の指針、意味・目的が上位存在(神)から付与される。コニーがバドミントンをする理由はこれとは違うかもしれないが、もし自分がバドミントンをする理由を生まれ持っての特性に見いだすのであれば「わたしはバドミントンをするために生まれてきたんだ」という使命感を心の拠り所とするだろう。

何のためにバドミントンをするのか

そろそろ本題に入りたい。作中で繰り返し繰り返し登場した「何のためにバドミントンをするのか」の答え。もっと言えば「我々は何のために生きるのか」

アニメ版 はねバド!は、羽咲綾乃と荒垣なぎさの決勝戦で最終回を迎える。ここで興味深いのが、荒垣なぎさがバドミントンをする理由の変化である。

最初、荒垣なぎさは過去の呪縛に囚われていた。全日本ジュニア選手権で、自分よりも年下の綾乃に完敗してしまった悔しさに。

過去の弱いままの自分ではいけない。もっと強くならなければいけないという焦りから、彼女は部員たちにきつく八つ当たりをしていた。(アニオリ展開)

このように、○○をする理由(何のために生きるのか)は一般的に、時間的・空間的隔たりを経た外部存在から付与される。

  • 母親のためにバドミントンをする(他者 → 自分)
  • 持って生まれた才能を信じて戦う(神 → 自分)
  • 負けてしまった弱い自分と決別するために頑張る(過去 → 自分)
  • お金持ちになるために働く(未来 → 自分)

外部存在から付与される意味・目的に頼ることの欠点は、その外部存在が消滅してしまったときに自分がそれをする理由を剥奪されること。母を失った綾乃がバドミントンをやめたように、外部存在を拠り所とした《生の指針》は思いの外脆く消滅する。

新垣なぎさは過去の呪縛に囚われてバドミントンをしていたが、コーチとの試合のなかで「バドミントンが純粋に好きだった頃の気持ち」を取り戻す。スランプを克服し、「バドミントンが好きだからバドミントンをする」シンプルな答えに辿り着く。

○○をする理由を見失ったときはどうするか

このブログの読者さんは創作をされる方が多いから、おそらく「自分は何のために小説を書くのか」「このまま小説を書いていて意味はあるのだろうか」といった悩みを抱えたことのある人は少なくないと思う。

アニメ版 はねバド!の主人公、羽咲綾乃と荒垣なぎさが最終的に見つけた答えが、おそらくは《実存》と呼ばれる概念に近いものだと私は解釈している。

過去のためでもなく、未来のためでもなく、バドミントンをしている今この瞬間の楽しさと苦しさを実感するために。

他者のためでもなく、神様のためでもなく、今この瞬間の自分を突き動かす衝動のために。

白帯の向こうに見える相手の姿は、――自分の心

(アニメ版 はねバド!最終話)

長々と語ってしまった。

もしも自分が「何のために○○をするのか」のクライシスに襲われ目的や意味を見いだせなくなったら、ひとまずは今この瞬間に集中してみることが大切なのかもしれない。

はねバド!と同じくスポ根モノの漫画(アニメ)である「灼熱の卓球娘」の主人公は、卓球をしている瞬間の「ドキドキ!」を感じることを目的に、卓球に打ち込んでいた。

今この瞬間しか味わえない快楽/快感(苦痛を含む)は、自分が生きているというたしかな実感を与えてくれる。

それは時として、他者のため、神のため、未来のため、過去のため、といった行為目的よりもずっと強く作用する。

アニメ版 はねバド!を見ながら私はずっとそんなことを考えていた。何にせよ、アニメ、原作共に素晴らしい作品でした。

追伸

アニメ版でより一層性格の悪さ(?)が強調された羽咲綾乃ちゃんが私は大好きです。たこたこ^~ ほえほえ^~

(了)