足がいっぱいあるのにダンゴムシは好かれやすい。
「ムカデの育て方」は見つからないけれど、図書館に行けば「ダンゴムシの育て方」の本はある。
ダンゴムシかわいい。
やはり丸まったり転がったりするのが萌えポイントなのだと思う。
「ダンゴムシ」の名前もかわいい。
どう転んだって悪い虫には思えない、チャーミングさがある。
ある概念にどのような名前をつけるかはとても重要だ。
例えば「ナメクジ」よりも「でんでんむし」の方が人気者で、「蛾」よりも「てふてふ/ちょうちょう」の方が愛されるのは、ネーミングセンスによるところが大きい。
「ルンバ」の可愛らしさと比べれば、「ドローン」にはどうしてもおどろおどろしい印象がつきまとう。
自分でも知らず知らずのうちに、こうした言葉の印象に振り回されている。
「努力」の語感は重すぎるなと、日頃から感じていた。
小心者の自分としては「努力しよう!」という言葉を聞くと、ひゃーっと落ち葉のしたに隠れてしまいたくなる。
努力に代わる、もっと軽い言葉が必要だと思った。
「努力しよう」を言い換えるフレーズとして有力候補なのは「どんどんドーナツどーんと行こう!」だ。
どんどんドーナツどーんと行こう!!
アニメSHIROBAKOのなかでヒロインたちが好んで使っていた口癖。
ニコニコ動画のコメントでは「絶対に流行らない」と笑われながらも、ツイッター作家志望クラスタの間では爆発的に流行している。
我々の間で「どんどんドーナツ!」という呟きがあった場合、「原稿がんばる!」の意味になる。
SHIROBAKOでは、夢に向かって努力することのメタファー(小道具)としてドーナツが用いられる。ヒロインは自分が追い詰められて頑張らなければならない局面になると、ドーナツを食べて元気を取り戻す。
重要なポイントとして、ドーナツには「甘さ」がある。
これは「現実は甘くない、だからもっと努力しろ」に対するアンチテーゼ(反対理論)である。
「甘さがあるから、頑張れる。甘さが元気と力をくれる」と。
わたしの夢は、甘い。だから頑張る。頑張れる。
努力には、甘さが必要なんだ。
さておき、マイナーな雑学として「努力、努める(つとめる)」には、こんな意味がある。
努力=《自愛する、自分を大切にする》
吾が聞きし 耳によく似る 葦の末の 足ひく我が背 つとめ給ぶべし [万葉集]
[意]私が耳にしましたとおり、葦(あし)のように弱々しくなよなよと足を引きずっておられるあなた。どうか「つとめて」ご自愛ください。*1
棄捐勿復道、努力加餐飯。 [古詩十九首、其一 別離の詩]
[意]あなたに捨てられたこと、もはや何も言いますまい。あなたはちゃんとお食事を取って、自分のおからだを大切にしてどうか元気でいてください。
もっとも、今日において使われる「努力」は明治期に”effort”の訳語として広まった方の努力であるから、自愛の意味での使用例はほぼ見かけない。
けれども、努力とは自分を大切にすることなのだと、僕は考えたい。
自己犠牲ではなく、自己肯定としての、努力。
さいごに。
「冒頭のダンゴムシの話はどういう前振りやねん!」というツッコミが入りそうなので、答えておくと、本当はまったく別の記事になる予定だった。
僕は「努力する」という言葉の代わりに、よく「転がる」と表現する。
「努力」が、自分の内なる意志の力を拠り所とするのに対して、「転がる」は周囲の環境や自然の摂理の力を利用する。
自分で一生懸命に足を動かすよりも、環境や習慣に身を委ねてころころと転がる感じで、《軽快さ》をもって、蝶(ちょう)が風のなかで踊るように行動しよう。
ゆえに、「努力」→「転がる」
そして転がるから、ダンゴムシの冒頭の話へと繋いで、美しく(キリッ と記事が締めくくられる……算段だった。
ところがSHIROBAKOの例を出したときに、うっかり脱線した。
ドーナツパワーすごい……。
ドーナツに話をぜんぶ持って行かれた……。
ダンゴムシの敗北だった。
でもドーナツに負けたのならしかたない。
どんどんドーナツどーんと行こう!!
【おわり】
*1:「つとめ給ぶ」漢文では「努」ではなく「勤」の字が使われているが、意味としては同じ。