ゲオルク・ハイム『モナ・リーザ泥棒』(河出書房新社1974年)を読んだ。いわゆる絶版本で入手が難しく、中古で2万円近くする。河出書房がまた新訳の世界文学全集版を出してくれたら嬉しいのだが、Amazon Unlimitedが話題となるなか、このように金を積んでも手に入らない本というのは存在する。
現状、これを読むためには、大学図書館や公立図書館をまわって探すのが最も早い。私もそうやってようやく見つけた。通読するなら一日でも可能だが、自分のなかで消化するには最低でも一年は要する作品。到底、三週間の貸出期限では理解し得ない。なのでこの記事に追記していく形で、感じたことを列挙していく。
(まだ記事としては未完成で構想メモ状態です。4年くらいかけてこの記事を仕上げていきます)
2016年8月9日 記
『モナ・リーザ泥棒』は短編集で、どす黒く救いようのない絶望的で頽廃したとてつもなく狂気に満ちた冥き物語が寄り集まっている。ボードレールの『惡の華』が好きな人は、間違いなく本作に飲み込まれるだろう。事実としてハイムはボードレールの影響を受けている。
(メモ)デュオニソス的狂気を感じる。
一部、いや多数の熱狂的な読書家から『モナ・リーザ泥棒』は高く評価され、絶賛される。その書評や考察には必ずと言って良いほど「狂気」の文字が入るのだが、これを私は「罠」だと考えている。
『モナ・リーザ泥棒』が描いたのは狂気そのものではなく「狂気の先にあるもの」ではないのか。同様にして、作中で描かれるのは「狂人」ではなくて「狂人が変身したあるもの」ではないのか。私は疑っている。
本作が「狂気」や「絶望」を表現したものだと素直に解釈するのは、やや踏み込みが浅いかもしれない。いや、踏み込みが浅いと思わせるほどの恐怖を作品が投げかけてくるのだ。「お前はまだその程度にしか到達していないのか?」と。
じゃあその「狂気の先にあるもの」とは何か。私はいくつか直感を得ている。しかし、今この場で書くのは正直憚られる。というより出し惜しみをしたい。いや、まだ消化しきれていないことなので書けない。ただ、少なくともはっきりと感じることは、あの短編集のひとつひとつは「絶望」ではなくむしろ「希望」なのだと。「破壊」ではなくむしろ「 」なのだと――。
同じ狂気という話であれば、アンドレ・ブルトンの『狂気の愛』の方がずっと狂気じみた文体であった。『モナ・リーザ泥棒』は文章に関していえばかなり読みやすく、比喩も計算された形で使われている。どのようなレトリックが使用されているのか、分析しようとすれば可能なくらいだ。狂気的どころか、理性的な文体で「狂気」が書かれている。理性的な狂人である。
2016年8月9日 記 その2
ゲオルク・ハイムは24歳のときに溺死した。奇しくも本書を読んだ僕自身も24歳で、おそらく最もショックを受けたのはその事実であったように思う。
メモ

じつはドイツ語の原文であれば上のサイトで読めるのだ。うああああああああああ、大学時代にしっかりドイツ語勉強しておけば!!!!!!
今後書くもの(この記事に追記・編集予定)
1.狂気の先にあるものは「 」である。
2.狂人とは「 」のなり損ねである。あるいは「 」を現実に齎すものである。
→ その理論が作中で用いられていることの証明。
3.「体験話法」の働きについて/フランツ・カフカ
4.デカダン派との繋がり/ボードレール
5.ニーチェの語る「 」の道と、デュオニソス的な何か
6.ゲオルク・ハイムの用いた修辞技法「交差呼応」「異例結合」「共感覚法」の3つの実践的考察。
7.私の狂気よ世界を喰らえ
(未完/2020年完成予定)