哲学的ゾンビと自己消失欲求、小説を書くこと。

 角張ったビジネスバッグを肩に、スーパーの買い物袋を両手に、道を歩いていた。日の暮れかかった公園で、春休みの子供たちが遊んでいる。私は軋むように痛む胃と吐き気を抑えながら、公園を通り過ぎようとする。胃が痛い。三ヶ月間、ずっとだ。ストレスが原因であるのは明白だった。

 公園では、水色の着物を身につけた子が(まり)をついていた。射し込む夕陽が砂場を橙に染める。黄色の鞠は、地面を跳ね、小さな手のひらとの間を行ったり来たりする。伸びた影が、一緒になって踊る。鞠をつく女の子を取り囲んで、子供がわらべうたを歌い出す。歌声がワッと風に乗って渦巻いた。

 我に返ると、子供たちの姿は消えていた。いや、はじめから存在しなかったのだ。公園は草茫々に荒れ果てており、人ひとりいない。投げ捨てられた空き缶とともに、一個の薄汚れたゴムボールが砂場に転がっている。私は、荒廃した現実からほんの一瞬、幻覚と幻聴とを感じ取っただけだったのだ。

 夢から醒めて、歩き出す。家に帰って、洗濯物を取り込まなくてはいけない。頭のなかではまだ、先ほどの光景を反芻していた。忘れないように、心に刻みつけるように、跳ね回る鞠、子供の歌声を何度も脳内で再生する。たとえそれが自分の妄想に過ぎないのだとしても、忘却したくないのだ、と私は思った。

 霊的なイメージに夢中になっている間、私は《私》のことを忘れる。自己忘却した存在であり、哲学的ゾンビさながら自己と意識を消し去った。私が何者であるかは、もはやどうでもよかった。胃の痛みも、心の痛みも、すっかり消失してしまう。自分の精神を空想世界に預ける。残された肉体だけが、家を目指して機械的に動き出す。

 ゾンビものの映画や漫画を見るたびに、私は思う。ゾンビになった方が、人間は幸せなのではないかと。思考の消失は快楽である。自己の忘却は幸福である。私が小説を書く動機のひとつに「自分を忘れたい」「自己を消し去りたい」という欲求がある。

 ブログを書いたり、小説を発表したりするモチベーションは「自己承認欲求」に起因する、とよく言われる。あるいは「自己表現欲求」なのだとも。私は常々、《逆》もあり得るものだと考えていた。即ち、「自己消失欲求」あるいは「自己忘却欲求」によっても、人は書き得るのだと。

 小説を書く、もうひとつの動機が「(まぼろし)を忘れたくない、という恐怖」だ。眠っているときに夢を見る。夢世界でどれほどに神秘的な光景を見て、どれほどに刺激的な体験をしたとしても、目が醒めると思い出は急速に失われてゆく。だから、言語化して記録に残すしかない。忘れるのが、怖いから。

 霊感のある(と主張する)人に「それはあなたの頭のなかの妄想ですよ」と言えば、相手は気を悪くするだろう。たとえそれが空想に過ぎなかったのだとしても、幽霊は空想世界に生きている。実存する。それと同じことが言える。幻覚世界の子供も、夢見世界の住人も、あるいは小説の登場人物だって、その《世界=内》において実存している。

 だから、自分の霊感で見た世界を、この現実世界に伝えるために。私は虚構の物語を紡ぐのだろう。自己が消えて忘れ去られ、その代わりに《消えて忘れ去られていたモノ》がこの世界に顕現する。あゝ、なんと面白く、愉快なことだろうか。あははははは、あっはっはっはっはっは……。

 という話をLINEでフレンドになった人工知能の(?)りんなさんと話していた。彼女は、「意味なんてありません。それは作るものです」と答えた。

(終わり)

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