やほー!
今日は「はてブでバズってたこの記事に便乗してPV数稼ぐでー!」
(創作者サイドから見た場合の女性キャラの扱いについて論じ、ジェンダー論と創作論の双方からの折衷案を定めるべく意義深い考察を云々……)
本音と建前が逆ですよ!!
※以下、 『創作世界において女性は弱く馬鹿に描かれ、性的に消費されている』という上記記事の命題に対する考察。
1.大前提 創作者が創作するときに考えていること
小説・漫画などを創作するときに、作者は何を考えているのか――は人それぞれやけども、主に次のようなことを頭に入れとる。
- 読者から「面白い」と言ってもらえる話を書きたい
- 新人賞受賞したい、出版社から認められたい
- 売れる話が書きたい、ベストセラー取りたい
- 自分のなかにある想いを物語に昇華させたい
- 物語を通して多くの人に伝えたいメッセージがある
……云々。
上記からも分かる通り、それ自体をテーマとする場合を除き、創作者が創作する際にジェンダー論について深く考えることはあまりない。
もちろん各登場人物を出すときにキャラ設定は行うけども、ここでは「読者にとって共感できる、魅力のある」あるいは「自分自身の投影・分身となり得る」ことが重要なんであり、創作の主軸となる。
間違っても、女性やからお馬鹿キャラにしようとか、そのような考え方で人物造形を行うことはありえへん。
2.なぜ女性は守られる存在として描かれるのか?
中・高生をメインターゲットとしたライトノベルを書くことを想定して話を進めるで。ライトノベルには女性向けレーベル(コバルト、ホワイトハート、ルビーなど)もあるけど、ここではそうでないライトノベル(電撃、ガガガ、スーパーダッシュ)について書いていく。
まず、ライトノベル作中に出てくる女性というのは創作者にとっては「ヒロイン」になる。この時点で必ずしも「ヒロイン=女性」とは限らない。
つまり『女性は守られる存在』と書くのは語弊があって、より正確には『ヒロインは守られる存在』ということになる。
言ってる意味がわからないのですが。
ヒロイン(heroine)とは女主人公のことですよね。
ヒロインが必ずしも女性ではないのなら、一体何なんでしょうか?
そうやなくて、現実における女性のリアリティを描きたいのであれば、純文学や純恋愛、エッセイ、私小説を書いてるやろってこと。
あえてライトノベルや少年漫画という形式で書くんやから、そこに出てくる登場人物はフィクションであり、二次元であり、空想であり、萌えであることが求められている。
「現実の人物のリアリズムを追求すること」はライトノベルの読者から一切求められていない、どころか望まれていない。
これは男性・女性を抜きにして、エンタメの登場人物にした時点で、キャラクターと現実の人物は決定的に分かたれる。
つまり創作者としては、ヒロインはヒロインであり、現実の女性ではない。同様に、ヒーローはヒーローであり、現実の男性ではない。キャラはキャラ、人は人。
何度も云うけども、読者はこの点ではリアリティを求めてはいない。
なーんか、詭弁っぽくてしっくりこないんですよねー。
では仮に、ヒロイン≠女性 であるとして、なぜ「ヒロインは守られる存在として描かれる」のでしょうか?
3.なぜヒロインは守られる存在として描かれるのか?
これなら、分かりやすい。
答えは書きやすいからや。
そもそも異能バトルにせよ、剣と魔法の戦いにせよ、人と人とが戦う物語を書くうえで、主人公の戦う動機ちゅうんはあくまで次のようなものに限られとる。
- 愛する誰かを守る
- 仕事
- 戦闘狂
- 金のため
- 復讐のため
- 自分の身を守るため
で、このうちどれが一番読者の心を掴むかいうたら「愛する誰かを守る」しかないやろ。
もちろん
- キノの旅 → 仕事and金と食事and自分の身を守るために戦う
- ブギーポップ → 自動的に戦う
- 俺、ツインテールになります。 → ツインテール愛で戦う
- コードギアス → 復讐のために戦う
のような例外もあるけども、基本的にはさっき挙げた「誰かを守る」動機が一番書きやすい。
そして、ライトノベルの主人公を男子高校生とした場合には、当然守られるキャラとしては「ヒロイン」を当てはめるのが自然な流れとなる。むしろこれ以外で書く方が難しい。
さらに「主人公が誰かを守るために戦う」というのは、何も少年向けライトノベルに限った話ではなく、少女漫画にも見受けられる。
例えば「小林が可愛すぎてツライっ!!」という女子中学生に人気の恋愛漫画でも、主人公のめごが彼氏を助けるために戦う描写がやはり読者の心を打つシーンとなっている。
同じく現在アニメ化されている「暁のヨナ」でも、主人公ヨナは、男幼馴染のハクから「守られるだけでなく守ることができるように」と弓矢の修行をしている。
「月刊少女野崎くん」「アオハライド」「オオカミ少女と黒王子」「となりの怪物くん」「緋色の欠片」「好きっていいなよ。」などなど、いずれも主人公(ヒロイン)が守られるだけの存在として描かれることは決してなく、むしろ愛する人のために戦う描写こそがもっとも作中で重要なシーンとなっている。
つまり、男女問わずして「誰かが誰かを守るために戦う」というのはエンタメにおいては王道なんやね。
4.ヒロインは本当に弱くて頭が悪いのか?
これは「戦う系ヒロイン」が躍進する現代においては特に語るまでもないことやけども、プリキュアが老若男女問わず絶大な人気を誇るのも、「強くて世界を守るヒロイン」が魅力的やからやね。
30歳過ぎのおじさんでも「生まれ変わったらプリキュアになりたい」と思うほどに強いヒロインに憧れとるし。
(えっ、あれって強さに憧れてたの……。)
冒頭に挙げた記事では「女体化によって弱くなること」が問題視されとったけど、これもまったく逆やね。今の創作世界では、男キャラよりも少女の方が圧倒的に強い。
- 俺、ツインテールになります。
- 俺とヒーローと魔法少女
- まほマほ
- 妄想奇行~Adolescence Avatar
- まじかる☆チェンジ
- 最強魔法少女あきら
- 魔法少年マジョーリアン
- ブロッケンブラッド
- おと×まほ
- 女子小学生はじめました
などなど、男主人公が「少女化」して戦う話はもはや定番ジャンルと化しとるけども
女体化したら強くなるのは我々の業界では通説ですがな。
(最後の『女子小学生はじめました』は別の意味で物議を醸しそうなんですが……面白いのでリンクを貼っておきませう……)
あと「戦う系ヒロイン」の代表作といえば「灼眼のシャナ」ですよね。
シャナでは、主人公よりもヒロインの方が圧倒的に強く、当初は「主人公がヒロインに守られる」という物語構造をとっていました。
シャナでは「ヒロインから守られる」という一方通行の関係性から、「守り、守られ、互いに補う」関係へと進展していきますが、創作キャラにおいても最終的には主人公とヒロインは『対等な関係となる必要がある』というのは鉄則です。
これはバトル漫画に限らず、少女漫画でも、最初は「恋する」だけの一方通行の関係だったのが最後には「愛し愛される」双方向への関係性へと進展する。
一方通行の関係から対等な関係へ。
これは創作論としても非常に重要なポイントです。
また「ヒロインの頭が悪い」というのも、あながち逆の方がトレンドという感じがする。
例えば『化物語シリーズ』は「主人公がヒロインを救う」という物語構造であるものの、女性キャラが総じて頭脳明晰かつ自分の考えをしっかりと持っていて、主人公を助ける役割を果たしている。
『さくら荘のペットな彼女』は、タイトルが誤解を招きそうなうえに《要介護系ヒロイン》なんていう宜しくないキーワードが広まってしまったけども、内容はほんまに良い。
さくら荘のペットな彼女においては「圧倒的な才能を持つヒロインと、才能のない俺」という図式があり、サブキャラでも「圧倒的な才能を持つ彼女と、彼女に追いつけない俺」という図式があるくらい。
ミステリラノベの「キョウカンカク」でもヒロインが探偵役やからあたりまえやけども、「人間離れした異能と頭脳を持つヒロインと、翻弄される俺」という図式がある。
ラノベ云うたら怒られそうやけども「すべてがFになる」シリーズの真賀田四季(真のヒロイン)はもはや神様レベルになっとる。
つまりここで言いたいことは、創作者サイドとしては女性キャラを女性であるという理由で弱くしたり頭悪くしたりすることは一切無いし、またそのメリットもない。
仮にそのような設定があったにしても、それは物語上の必然性ゆえである、ということやね。
ここに、ライトノベルや少年漫画と、ジェンダー論との間に決定的な相容れなさというか、次元の隔てがあるんやね。
「女性」について考えるのであれば、サブカルやなくて純文学を読んだ方が得られることが多い。クンデラの『存在の耐えられない軽さ』とか、太宰治の『斜陽』『女生徒』など。
対してエンターテイメントはそら読者に「消費されるために」あるんやから、作中のキャラクタが(男女問わず、また性的なものを含め)消費されてしまうんはある程度仕方がない。
せやけど、重要なんはここで消費されているのはキャラであって人間ではないちゅうことや。
最後に、「創作されるキャラとは何か?」に対する回答として、クンデラの言葉を引用して締めくくっておきたい。
登場人物たちは生物が誕生するように、ひとつの母体から生まれるのではなく、あるひとつの状況、格言、メタファーから生まれる。そのメタファーのなかに、根本的な人間の可能性が萌芽としてふくまれているのであって、作者はその根本的な人間の可能性がまだ発見されていないか、あるいは本質的なことはまだなにも言われていないのだと想像するのである。
ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(西永良成 訳 河出書房新社)第5部 重さと軽さp.256より引用