ときちゃん、大変です。
以前書いたブログ記事が40はてブもつきました。
私なんて驚きすぎて画力が中途半端に評価し難い感じに上がっちゃいましたよ!!
あれはうちもびっくりしたわー。
めっちゃ嬉しい話で、昨日はひとりたこ焼きパーティーでお祝い会したで!
読者のみなさんほんまおおきに!
(たこ焼きパーティー私も誘ってくれたらいいのに……)
ところで今日は何の話をするんですか?
せやな、今日はもう夜遅いし、恋バナでもしよか。
うちは高校生の頃から作家を目指して小説を書いとったんやけど、当時はまだライトノベルやオタク文化が一般には普及しとらんかったから、二次元萌えの素晴らしさを知らず、他の作家志望仲間のように芥川賞や江戸川乱歩賞に憧れる年頃やった。
でも『萌え』の概念自体はあって『怪人二十面相』に出てくる小林少年の女装萌えとか、あるいは安部公房『箱男』におけるフェティシズムとか、そういうものに心ぴょんぴょんして本の影に顔を隠してニヤニヤするタイプの文学青年やったんかな。
「30歳過ぎても童貞なら魔法使いになれる」という箴言に心打たれて別の道を踏み出すようになるんはそれから10年後の話や。
何言ってるんですか!
ときちゃん現役女子高生でしょ!!
ふぇぇ、忘れてたよぉ……。><
ところで、小説を書く人で日記をつけてる人は少なくないと思う。
うちも日記愛好家のひとりやった。
ピタゴラスの 『万物の根源は、数である』よろしく『ふっ、この世界はすべて言葉で描写できるのさ』とキザにも思い込んでいたこともあるし、あるいは私小説や書簡体小説への憧憬もあったのやろう。日記は何だかんだで十数年続いたし、今でもたまに読み返すと恥ずかしくて抱きまくらを抱えて床を転げまわるんやね。
なんにせよ、この世はすべて言葉で描写できるというのは、我々にとって疑いようのない真実に思えた。わたしたちはたしかに目で景色を見て、皮膚で温度を感じ、耳で音楽を捉えるが、それによって生じる感情はすべて脳で言語化されるのだから。
火傷の痛みから恋の痛みまで言葉で表わせないものは存在せず、現にあらゆる文学作品があらゆる感情を言葉に変換してきた。
前置きが長いです!
結局何が言いたいんですか!!
ふぇぇ、まきちゃん怖いよぉ。><
結論から述べるとやね、初恋の記憶を「日記」に書き残すことによって、不思議なことが起こった。初恋の人の容姿を詳しく描写すれば描写するほど、彼の輪郭が朧げになってゆき、頭のなかからイメージの記憶がふっと消え去ったんや。
恋した瞬間の心理描写を書けば書くほど、思考はなぜか冷たく研ぎ澄まされていって、ふわふわと暖かく漂っていた恋愛感情が線香花火の散るがごとく暗闇に消えるのを実感したんや。
ふつう、日記ちゅうんは感情や記憶を忘れないように書き残すもんや。
せやけど、何故かそのときに限っては書けば書くほど真実から遠ざかってゆくような感覚に襲われた。私は彼のどこにときめいたの? 心はどう感じたの?
分からなくなってゆく――、これはある種の書くことによる恐怖体験やった。
で、つい先日ネットサーフィンしてたら、こんな言葉を見つけたんや。
Verbal overshadowing――言語的隠蔽
Verbal overshadowing – Wikipedia, the free encyclopedia
これな、詳しいメカニズムも分かってないしいろんな仮説があるようやけども、言語化して描写することによってイメージ記憶が妨げられるとかそんな話なんやね。
恋愛心理学?では、恋人との喧嘩のときに思ったまま言葉に出して言い合っていると「なぜか本当の自分の気持ちが分からなくなってしまう」現象の説明に言語的隠蔽が用いられとる。
↓ソース
あと、2年ほど前に物書きのフォロワーさんが
『言葉は、思考が最後に行きつく場所なんだ。言葉になってしまえば、思考は固定され、動けなくなる。言葉は思考の墓場なのだよ。』
みたいなことを言うとった。
とはいえ、物書きにとっては主観的感覚を言語化することこそが使命なのやし、「主観的感覚を言語化することによって主観的感覚が失われることによって主観的感覚が表現できる」ちゅうんは二律背反のパラドクス的なモヤっとした釈然としない寂しさがあるんやね。
なんというかよく分からん話になってしもたけど、うちが今回得た教訓はあれや。
初恋は言葉で語れない。
――First Love was beyond description.――
【完】
(なんかカッコよく締めくくってるけども今日の話は何だったのでせうか……)
おわり