映画『君の名は。』小説を書くという視点から見た《夢》に関する創作的考察

※本記事は映画『君の名は。』の物語核心部分に触れる。これから映画を視聴される方にとっては、ネタバレとなる。すでに視聴済みであることを前提に話を進めるので、未視聴の方は避難されたし。

『君の名は。』において僕がもっとも心を動かされたシーンについて

本題から入る。

『君の名は。』の作中シーンで、僕がもっとも心を揺さぶられたのは瀧(たき)が糸守町の風景デッサンを完成させた、あの場面である。風景画が完成されたところで、僕はすでに泣いてしまっていた。

この記事では「なぜ瀧が風景画を完成させることが凄まじいことなのか」の1点に絞って、僕の得た創作的考察を伝えたい。

なお、記事中では「瀧の視点での物語」について取り扱う。混乱の元となるので、この視点は固定しておきたい。

0.前提条件の確認

大前提として、瀧(たき)と三葉(みつは)の入れ替わり現象が《夢》により生み出されるものであることを強調しておきたい。作中でも描かれているとおり、あの現象は「不思議な現実」ではなくて「不思議な夢」である。

神秘体験はあくまで夢の延長線上にある現象であり、決してSFが起きているわけではない。その辺りを混同していると「どうしてスマホで日記を付けていたのに時間のズレに気づかないんだ」なんておかしな疑問が湧いてくる。

夢なのだから、夢世界で体験した出来事は忘却されて当然である。また、夢の世界で現在の西暦を気にして違和感を持つことなど(たとえ明晰夢状態であったとしても)大変な困難を伴う。

「瀧(in三葉)が初日でバイトをあれだけ自然にこなしているのはおかしい」といった疑問も、その入れ替わり現象が、夢をベースとして実現されていることを考えれば不思議でもなくなる。理論武装するならば、ユングの集合的無意識云々の話を持ち出しても構わない。

とにかく、瀧と三葉は《夢》を見ていて、その《夢の世界》のなかで入れ替わっていた。この前提条件だけは絶対に譲れないので、しつこいようだけど繰り返しておく。本作で描かれる神秘現象は《夢》が主であり、《入れ替わり》は従たる性質を持つ。

1.実存性が否定されるヒロイン

瀧が糸守町の風景画を書き上げた時点では、(瀧視点で)三葉の実存性は確かなものとなっていなかった。つまり、三葉は《夢》の生み出した空想上の産物で、現実世界には存在していない可能性が大いにあった。

女子高生と入れ替わる程度のことは、明晰夢の技法を用いれば僕たちでも再現できる。明晰夢下では、視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚は現実のそれと変わらないほどにリアルで鮮明であり、もちろん作中で描かれたように胸を揉むことだってできよう。

瀧(in三葉)が最初のダイブ時に「ええ夢やわー」と言っていたことからも、やはり神秘体験としては(現実ではなく)夢寄りなのだ。

電話番号やメアドを交換しても通じないし、三葉がこの世に存在していることはどうやっても証明できない。

「日記があるじゃないか」と思われるかもしれないが、あれこそ僕たちでも容易に再現できる。空想したキャラクターを身体に憑依させて文章を書く。小説書きにとっては日常茶飯事であり、トランス状態に入れれば執筆時の記憶はなくなる。

女子生徒の日記を書くことくらい、太宰治もやっている。(と勢いで書いたが、この部分はきっと突っ込みをくらうだろう。女生徒は太宰がゼロから創作したものではない)

さておき、とにかく重要なことは瀧にとって三葉は「夢の世界で出会った存在のあやふやな人物」に過ぎないということ。出会う、という表現が妥当かどうかは微妙だが「夢の世界で知った」と置き換えても構わない。

なにしろ、作中でも描かれているとおり、入れ替わり時の体験は忘却されゆく。この世界に生きていないかもしれない、夢の世界にしかいない空想上の人かもしれない。

そのような実存性が否定され得るヒロインを瀧は好きになったのだ。

だからはっきり言って「君の名は。」はそんな生易しい恋愛物語ではない。夢の世界で知り合った人物に恋をする、という狂気的な構造が内包されている。

※「夢じゃなかったんだ!」という台詞も作中には出てくるが、それはあくまで、瀧が風景画を描き上げるシーン以降の話となる。(ゆえにここでは扱わない)物語のポイントとしてはやはり、まだ出会っていない人物に恋をする(≒不確かな存在に恋をする)というところだと感じる。

2.糸森町の風景画を描く行為は何を指すのか

「どうして瀧は入れ替わり時に住所を確認しなかったの? 風景画を描くときはGoogle画像検索で『糸森町』を検索したら一発じゃん。あと高校通ってたら学校名も絶対覚えているよね」

なんて野暮な質問を投げかける人は、記事をここまで読んでくださった読者のなかにはひとりもいないことと信じている。

承知のとおり、たとえ明晰夢状態であったとしても《現住所を確認したうえで、それを記憶していること》は不可能に近い。基本的に、文字だとか数字だとか、そういった情報は(夢のなかで知り得たとしても)記憶できない。

これは、夢日記歴10年の僕が保証する。瀧も三葉も、忘却されゆく夢の世界で、ものすごくうまくやっていた。それ以上の機転を求めるのはあまりにも酷である。

ここまでくればもうお察しかもしれない。

「瀧が糸森町の風景画を描いた」という事実が、その事実以上の衝撃を齎すことを。

そう、瀧が描いたのは、ただの風景画ではないのだ。実体験に基づく記憶を頼りに描いた絵画でもないのだ。

彼は《夢》で見た風景を描いたのだ。

瀧が描いたのは、夢の世界である。

ちょっと気を逸らせば記憶から零れ落ちてしまう、しゃぼん玉のように儚くて脆い、夢の風景である。

作中であのシーンはわりとサラッと流された気もするが、瀧があの絵を描くためにどれほどの苦労と執念を費やしたのか、想像に難くない。

瀧は、三葉と現実で会うために、あの絵を描いた。

実在しないかもしれない少女のために、描いたのだ。

僕が深く感動を得たのは、瀧のやっていた行為が、僕たちのやっている「小説を書く」という行為と極めて似ていたからだ。

僕は小説を書く。

見た夢を忘れないために。空想で終わらせないために。架空の少女を実存させるために。

瀧は、あの風景画を描き上げた瞬間、藝術家となっていた。僕の目には、そう見えた。

3.名前を忘れるということ

夢のなかで友人や恋人をつくった経験のある人は、僕以外にもいると思う。(夢って願望を叶えるものだから)

僕は、じつは、初恋の相手が「夢で知り合った人物」だった。

当時は夢日記と明晰夢に傾倒していて、夢で起きた体験はかなり鮮明に(現実と変わらないくらいに)記憶していられた。

初恋は高校生の頃。夢の世界で。相手の顔も名前も、まったく記憶に残っていない。覚えていない。たしかに僕は、彼女と出会って一目惚れをしたというのに。

夢のなかで、初恋の人とデートをしていて、僕は「このセカイは夢である」という事実に気づいてしまった。あともう少しで目覚ましのアラームが鳴るであろうことも知っていた。

だから彼女に別れを告げて、最後に名前を聞いた。君の名を教えてほしいと。

彼女は名前を教えてくれた。

決してその名だけは忘れるものかと思った。

目が覚めてすぐに、枕元にあった夢日記を開いて、彼女の名を書き留めようとした。けれど、名前が出てこない。あれほど好きだった彼女の笑顔も、思い出そうとすればするほどに色褪せていった。

夢を忘れてしまうのは、なんて悲しいことだとショックを受けた。

僕が覚えていたのは「大切な人を失った」という事実のみである。

夢を忘れるのが怖い。

夢を忘れたくない。

その恐怖と悲しみが原体験となって、僕は小説を書き始めるようになった。

夢のセカイで出会った人の名前は、記憶していられない。それは実際の明晰夢でも、「君の名は。」の世界でも、共通する掟のようである。

いつも何かを探している。

失い、忘れてしまった、何かとても大切なものを。

それを見つけるための行為が、小説を書くことであり、絵を描くことであり、音楽を奏でることである。

「君の名は。」は綺麗なハッピーエンドで、瀧も三葉も最終的には救われた。しかし、現実に生きる僕は、忘れた記憶を取り戻すことはできない。初恋の人に会うことも。

これからもきっと、僕は小説を書き続ける。忘れてしまった、何かを探して。

映画「君の名は。」で僕が心を動かされたのは、瀧の体験があまりにも自分の実体験と似ていて、なによりも「好きになった人を忘れたくない」という悲痛な叫びが胸に響いたからだ。

僕たちは日常生活のなかで、忘れたことを忘れている。

忘却を忘却していられるから、何事も無く生きていられる。

でも、本当は瀧のように、探さなければならないものなんだ。

見つかるとしても、見つからないとしても。

(了)